2010年1月27日
江戸の人口と識字率
ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそ
れに匹敵する規模であったと推定されている。成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満
)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のシュリーマンらが、驚きを以って書いてい
る。また、武家だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられている。その様
に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。
ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査
が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。武士の人口は
、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの
幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。雑記等に記される同時代人の推定も50万
人から200万人まで幅がある。
町奉行支配下の町方・寺社方町人人口
江戸の人口の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された元禄6年(1693年)6月17日の35万3588人であり、徳川綱吉が浮説
雑説を唱えた者を探すために行われたものであるが、実際に人口調査の体裁が整えられたのは、徳川吉宗によって子午改(6年毎)
の全国人口調査が開始された享保6年(1721年)以降であり、大岡越前守から有馬兵頭頭へ提出した書類の形式で伝えられている。
徳川吉宗は享保8年(1723年)9月から享保9年(1724年)4月の間の9263人の急激な人口減少、享保10年(1725年)4月から6月の間
の1万0394人の急激な人口増加に気付き、季節的な人口変動の理由を調べさせた結果、冬の火災の多さから特に子女は近隣実家等へ
疎開する、春以降火災からの復興再建や土蔵の建築が増えて労働転入者も増える、などといった実態が判明している。
以下公文書の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。江戸の範囲は随時変
わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは1745年以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは1818年以降で
ある。また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。明治2年(1869年)4月に施行された江戸市街調査による
と江戸は町地269万6000坪(8.913 km2, 15.8%)、寺社地266万1747坪 (8.799 km2, 15.6%)、武家地1169万2591坪(38.653 km2,
68.6%)より構成されていたが、この内武家地の人口は江戸時代を通じて調査より除外された。公文書の形式で残っているもの(重
宝録、享保撰要類集、町奉行支配惣町人人数高之改、天保撰要類集、市中取締類集)以外は信頼度が低い。出典のうち『江戸会雑
誌』や勝海舟の『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる
江戸時代の史料が現在では不明となっている。斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑わ
れるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであ
り、信頼性が低い。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
江戸の人口と識字率についてしらべてみました。
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